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胎児が障害を持っていると分かったのに産む理由が分からない

思った事を書くだけ

出産前に何らかの検査を受ける事で事前に子どもが障害児かどうかが分かるらしい。
それを事実と仮定した上で、昔から何度も思い続けてきてる事なんだが、なんで自分の子どもが障害児なのにわざわざ産もうと思ったのかが、…そういう親が居るのかが…理解できない。

  1. そのまま産んだとしても、生まれた障害児が人生の過程において健常者よりも余分に苦しむ事は明白である。
  2. そのまま産んだとしても、親にとってもその障害児の面倒を見るのにかかる労力が健常者の場合よりも甚大なのは明白である。

それに、一度産んでしまったら「やっぱりこんな障害児は自分には育てられない」と育児放棄は出来ないのだから(赤ちゃんポストみたいな例外はあるかも知れないが)、判断は速いほうがいいと思う。

胎児の段階で障害者と分かったとしても、その胎児の命は存在が始まってからごく数週間~数十週間に過ぎない訳だから、当然命の価値も軽く判断できるし、何よりも仮に堕胎等をしたとしても両親の心理的負担は格段に小さい事は明白である。
これは簡単な思考実験で分かる。5歳6歳の子供を死なせた時の悲しさ・心理的ショックと母胎の健康上の問題等で胎児が死産となった時の悲しさ・心理的ショックを比べた場合どちらがより大きいかと言えば、前者である事は明白である。

だから、自分の子供が障害を持っていると分かったら、勿論障害の程度による事は言うまでも無いが、堕ろしてしまう方が、後々のリスク・不幸を比べた場合に、より合理的であるとしか私には思えない。
たとえ障害を持っているとは言え堕ろしてしまったら悲しいだろうし、母胎への肉体的な意味での負担も当然ある。何よりも「俺は堕ろす(=殺す)事を選んでしまった」という十字架を背負う事が心理的負担にはなるだろう。

でも、そういうのは一時の負の感情にしかすぎず、10年も経てば「そんなことあったなぁ」程度になる事はほぼ間違いない。
それなら、さっさと堕ろして次の健常な胎児を作る事に専念した方がよっぽどマシだと思う。

それでも産むという選択をした親は、そういう負担よりも「殺したくない」という感情論を優先させたか、もしくは、誰でも想像がつくような後々の負担さえも思わないぐらいの、一種の”変わった”心理状態だったのだろう。
考えられるのは、

  1. 「何があっても堕ろさず育てる!」という、宗教的バックグラウンドがありそうな、固い決意・信念
  2. 高齢出産、母胎が弱ってる等の理由で今回産む期を逃すともう自分の子供が得られない

ぐらいか?
1に関しては率直に「頭がおかしい」としか思えない。
2に関しては当人の感情としては分からないでもないが、「お前の『子供欲しい!』欲求で産まされた障害児はたまったもんじゃねぇよ」っていう批判が出来てしまう。もはや(養子を取るなどの選択を取らず)ここまで親のエゴを突き通して障害児を産むなら、育てられなくなったら親に刑事罰があっていいと思う。


…と、まぁ考えを書いてみたが、現実では中絶は沢山あった:平成25年度衛生行政報告例の概況
のpage -9-を見ると、平成25年度の中絶件数の総数が、186,253件とある。
こう言う数字を見ると、結局は人は「障害児なんて自分の子供には要らない」って判断してる現実的な"リアルな"感じが伝わってくる。

結局、メディアを通して聞こえてくる「命を大切に」みたいなセリフは美辞麗句に過ぎず、私の率直な考えが現実を多少は捉えていると確認できただけだ。

一応、前もって弁明しておくと、
人々は「自分の子供に障害児なんて要らない」と思ってる事を論証するには、(自分の子供が障害児だと分かったから堕ろした件数) ÷ (自分の子供が障害児だと分かった件数) の値を得ないといけないんですがね。